近藤真琴伝関係の本4冊でまとめてみました。
近藤真琴資料集
近藤真琴伝
攻玉社九十年史昭和28年:表紙傷、小汚れ。背表紙小破れ。ページ小黄ばみ、ややしみ。
攻玉社百年史 昭和38年:非売品 外箱傷、小汚れ。ページ小黄ばみ、ややしみ。
昭和十一年九月四日は近藤真琴先生の没後五十年に当り、その年十月、先生の五十年式年祭と攻玉 社創立七十五年の記念祝典を行うことになった。
近藤真琴先生の御伝記を五十年間も作らずにいた吾等門人一同は魅愧に堪えない」と時の理事長山 ロ鋭之助先生はその序文に記している。当時は近藤真琴先生の薫陶を直接受けられた門下生が沢山世 の中で活躍されていたが、その中の一人で人情大臣と呼ばれた政友会の重鎮、望月圭介先生は、伝記 の序文の一節にいみじくも今日の工業国日本の基礎を作った教育者は近藤真琴先生であると断じている。
近藤先生は幕末及び明治初年の思想紛糾の中に立ち、毅然として和魂漢洋才の旗幟を鮮明にし、且 つ我が国の将来を達観して、海事に並に工業方面の教育に努力精進された其の卓見には、現今の帝国 内外の情勢に鑑み、私は今更ながら衷心より敬服の念を禁じ得ないものである。
没年:明治19.9.4(1886)
生年:天保2.9.24(1831.10.29)
幕末・明治初期の洋学者,教育者。幼名鉚之助,通称誠一郎。真琴は諱。鳥羽藩(三重県)藩士近藤儀智,誠子の次男として江戸で生まれる。小浜樸介の家塾などで漢学,国学を学び,さらに高松譲庵に蘭学を学ぶ。安政2(1855)年鳥羽藩蘭学方となり,文久3年(1863)年,幕府の軍艦操練所に通学するかたわら,鳥羽藩江戸中屋敷内の自宅で蘭学塾を開いた。明治2(1869)年海軍操練所に出仕,兵学中教授などを経て,18年には海軍1等教官になる。一方,2年,もと一橋下屋敷に攻玉塾(現攻玉社学園)を開き,海軍予備教育を行った。攻玉塾は4年芝新銭座に移転し,航海測量習練所,陸地測量習練所を併設するなど,特色ある学校として発展した。<参考文献>攻玉社学園編『近藤真琴伝』
攻玉社九十年史
近藤塾の誕生 攻玉社は近藤眞琴先生の蘭学に造詣深きことを伝え聞いた人々が、その門を叩いて 歌を請うた、所謂蘭学塾の胎生に創る。実に文久三年、今から九十年を遡る。当時は徳川三百年太 本の夢破れて幕府崩壊の危機に頻し内憂外患交々到るといつた物情騒然たる時であつた。先生の慧眼に 映ずる所のものは、今や扉をとざして学和漢に騙跨すべき時ではない、広く知識を世界に求め、海外の 事情に通じ国運の開発を図らねばならぬというにあつた。蘭学に志した所以である。先生の学は更に算 数に於ても学者として一家をなし、語学は英語、独逸語に通じ、航海測量の諸学においては殊に精し く、当時殆ど之に追随するものがなかった。現在本社に所蔵されている先生手沢の著作を拝見しただけ でも先生がいかに広汎深遠なる学識と卓拔豊富なる見識とをもつておられたかが想像される。名声を伝 え聞いてその門に教をこう者踵を接したこというまでもない。文久三年といえば先生が四谷坂町の鳥羽 藩邸内に住んでおられた頃で、自宅において蘭学の教授を始められた。蘭学の外に数学や航海術も併せ 教えられた。門人の数は漸次に増加して二十余名に達し、邸内狭しとするばかりであった。これが所謂 近藤塾の誕生である。